前回記事:
日本の中華料理屋さんの中華料理は本場の中華料理と味が違う説ーーに対する反対説 - しぼりたてチャイナ
前回の記事では、これまでに日本で受け入れられてきた中華料理の品目について、地域ごとに見ていきました。
しかし、あろうことか日本の中華料理を代表するラーメン、餃子、チャーハンが来歴不明であるということで、この記事に持ち越しになってしまいました。
1、お前はどこぞのラーメンじゃ
まずはラーメンから見ていきます。
ウィキペディアによると、明治時代の神戸や横浜などに形成された中華街に日本ラーメンの起源があるそうです。
しかし、いったい誰が中国のどこから持ってきたのか、具体的なことについては何も書かれていませんでした。
いっぽう、中国では現在でも全国各地に無数の種類の麺食が存在していて、百花繚乱の様相を呈しています。
日本にやってきた当時のラーメンの原型がどんな様子だったのか、残念ながら今ではわかりませんが、もしそれが醤油鶏がらスープにかんすい麺を合わせた、昔ながらの支那そば、中華そばタイプのラーメンだったのだとすると、私は中国でまだそのようなラーメンに出会ったことはありません。
「拉麺」という漢字からわかるように、おそらく引っ張って(拉)作るタイプの麺だったのでしょう。
神保町にお店がオープンした「蘭州ラーメン」も引っ張って麺を作るタイプですね。
どこかで見たことのあるラーメン
中国で「中華そば」タイプのラーメンには出会ったことがないのですが、先日、旅行中にとても興味深いラーメンに出会うことができました。
江蘇省の鎮江市を旅行中の出来事です。
地元鎮江の名物だという「鍋蓋麺」を注文してみたところ、出てきたのがこちらです。
どどん。
おお!!
この太ちぢれ麺は・・・今までに出会ったことがない!
麺にしっかりコシがあるところとかが、やたらと日本のラーメンっぽいのです。
そこで調べてみると・・・
「鍋蓋麺」は水運の要所として古くから栄えていた鎮江市で、清の時代から食べられている麺とのこと。
なんでも清の最盛期の皇帝である乾隆皇帝が鎮江へ周遊してきたときに、地元のおばちゃん?が皇帝に献上する麺を茹でる際、間違えて鍋のサイズに合わない小さな蓋を落として茹でてしまったところ、これが大好評、ということで広まったラーメンだそうです。
しかし驚愕なのはエピソードよりもその麺の打ち方です。。
この「鍋蓋麺」、別名を「跳麺」と呼びます。鎮江市内でも、お店によってはメニューに「鍋蓋麺」とは書かずに、直接「跳麺」と書いてあるところがありました。
それではどうして「跳麺」と呼ぶのでしょうか。
それは、麺を竹で打つからだそうです。竹の片方を固定し、その上に人が座って、飛び跳ねながら麺を打つから「跳麺」。
おお!!!
それって栃木の佐野ラーメンと同じ打ち方ではないか!
青竹打ちって日本の佐野市独特の麺打ちの方法だと思っていたら、まさか中国にもあったとは。。
今回は実際に麺を打っているところは見られなかったものの、竹で打っているのであれば、麺にあれだけのコシがあるというのも納得がいきます。
しかし、麺がそっくりでも、スープはちょっと違うようです。
佐野ラーメンのスープは白く透明で、こちらの「鍋蓋麺」のスープは醤油で真っ黒なのです。
ん?
ふと振り返ると、店のおばちゃんが超強火で何か黒い液体を熱しています。
何をしているのか聞いてみると、
「スープのタレ(醤)を作ってるんだよ」とのこと。
すごい強火で、かき回しながらグツグツと、ドロドロと煮込んでいます。
私はその濃厚な醤油の匂いを嗅いだ途端に閃きました。
これは「焦がし醤油」ではないか?
焦がし醤油ベースのスープに、太ちぢれ麺?
それって、日本のどこぞのラーメンチェーン店で昔食べたことあるよ。
実際に食べてみると、味もそっくりそのままでした。
その懐かしい味に、少年時代の記憶が頭を突き抜けます。
どうして佐野の麺に焦がし醤油を合わせた、こんなラーメンが江蘇省に存在しているのか?
この2つの場所の間に、いったいどんな関係があるというのか。
あとでちょっと考えてみたいと思います。
以上、鎮江の「鍋蓋麺」でした。
2、お前はどこぞの餃子じゃ
お次はみんな大好き餃子です。
餃子も中国からやって来たというのはみなさんご存知の通りです。
餃子の起源については、中国では半ば伝説のような話が残されています。
今から2000年あまり前の後漢の時代、とある厳冬のこと。特別冷え込んだこの年の寒さのおかげで、着る服も満足に持たない多くの貧しい人々が凍傷で耳を失ってしまいました。中国医学(漢方)の理論確立に大きく貢献したとされている医学の聖人、張仲景はその様子を見て、なんとか容易に身体を温められる食べ物が作れないかと研究を重ねた結果、作り出したのが、肉を包み、人の耳の形を模した餃子だったといいます。その後張仲景は、貧しい人々のために無償で餃子を茹でて支給したとのことです。
その日はちょうど冬至の日だったことから、現在の中国でも、冬至の日には決まって餃子を食べる風習が残されています。
しかし、現在中国各地で食べられている餃子はほとんどが茹でた餃子「水餃」で、日本の焼き餃子とは異なります。「水餃」は日本ではあまり普及していませんね。茹でたのだとご飯もお酒も進みませんから。
それでは、現在の日本で圧倒的市民権を得ている「焼き餃子」は、いつ、どこからやってきたのでしょうか。
焼き餃子の起源
中国では、焼き餃子は「鍋貼」と呼ばれています。
大都市などでごくたまに「鍋貼」のお店を見かけることがありますが、茹でた「水餃」に比べると中国ではかわいそうなほど人気がありません。
その起源を調べてみると、一説には宋の時代からある、とか、または民国時代になってから発明された食べ物だとか、いろいろな説があるみたいで、はっきりとはわかっていないようです。
現在、焼き餃子「鍋貼」がよく食べられている地域として、江蘇省の揚州が挙げられるでしょう。行って実際に食べたわけではないのですが、ネット上の揚州人の文章を読んでみると、普段から朝食として親しまれていることがうかがえます。(「鍋貼」が主流だという地域は他にもあるかもしれない)
さて、餃子が日本にやってきたのは案外遅く、ウィキペディアによると、第二次世界大戦後の満州引き上げ組が中国の東北地方でよく食べられている餃子を持ち帰ってきたのが全国的に普及するきっかけになったそうです。
気になるのが、東北の「水餃」を日本に持ち帰った際に、どのようにして茹で餃子が焼き餃子に変化したのか、ということです。当時たまたま餃子を茹でる鍋がなかったから焼いてみた、と言われていますが、それまで茹でていたものを焼いてみるという発想が突然出てくるものかどうか。
まあ焼うどんとか、ありますが。
また、「餃子に何をつけて食べるか?」という観点からも何か見えてくるかもしれません。
というのも、先週友人数人で餃子を食べた際に、お酢だけで食べるか、お酢と醤油を合わせて食べるか、地域によって見事に別れたからです。
3、お前はどこぞのチャーハンじゃ
さて、「鍋蓋麺」を食べてお腹がいっぱいになった私は、鎮江市から、長江を挟んだ向かい側にある揚州市にやってきました。
北京と杭州を結ぶ大運河が長江とぶつかる場所に位置する揚州市は、唐の時代に全盛期を迎えました。当時、首都であった長安を除くと、もっとも富が集中し、栄えていた場所が揚州だったといいます。
現在は若干影が薄れていますが、経済的に発展が遅れているというわけではありません。
そして中国で「揚州」と聞いて誰もが思い浮かべるのがチャーハンです。
とても不思議なことに、中国各地のご飯屋さんのメニューに「揚州炒飯」が進出しているのです。店として全国進出しているのではなく、いちメニューとして全国進出している変わり者です。
結構あちこちで見かけるので、揚州と炒飯が容易に結びつくのです。
さあ、天下の揚州炒飯を食べるぞ。
期待しながら注文します。
チャーハンもやっぱり中国のものが日本よりも圧倒的に美味しいんです。豆板醤や老干媽を加えて炒めたり、醤油で焦げ目がつく寸前まで炒めたり。火力のおかげなのか、お皿に盛られたときの香りが全然違う。
日本にもいろいろなチャーハンがあります。私が思い浮かべているのはもしかすると、自宅でお母さんが作ってくれるチャーハンなのかもしれません。
冷蔵庫の冷やご飯がたまるたびに食べてきた、あのチャーハン。薄味で、どちらかというとピラフみたいなチャーハン。好きかというと、そこまで好きではない、あのチャーハン。
さあ、待望の揚州チャーハンが運ばれてきました。
!!
・・・いや待て。
うちのチャーハンやないかい!
食べてみると・・・やっぱりうちのチャーハンの味でした。
一般的な中華料理屋さんや、ラーメン屋さんで食べる、あのチャーハンの味でした。
揚州チャーハンに必要以上に期待していたために、このあまりにも慣れ親しんだ味には少し失望してしまいました。しかし失望と同時に、突然あることに気がつくのです。
揚州料理、日本の中華と似すぎでないか?
4、お前はどこぞのラーメン餃子チャーハンセットじゃ
ラーメンの部分で紹介した「鍋蓋麺」は江蘇省南部、鎮江市の麺料理です。
焼き餃子「鍋貼」をよく食べるのは、鎮江市の向かい側、同じく江蘇省の揚州市。
日本の中華そっくりのチャーハンももちろん揚州市。
・・・。
さらによく思い出してみると、この辺りの料理屋ではテーブルの上に白胡椒が常備してあるのも日本中華とそっくり。(これは中国の他の場所ではあまり見られない。このとき一緒にいた福建の友人は、なんだこれーと白胡椒に興味津々だった)
ラーメンを食べるときに、豪快に音を立ててすするのも日本とそっくり。(福建の友人に聞いてみたら、そういえば確かに普通こういう食べ方しない!と言ってラーメンをすするお客さんを動画に撮り始めた)
さらに調べて行くと・・・
揚州の春巻きが日本とそっくりです。(中国各地に皮や中身や作り方が違う様々な春巻きがある)
江南一帯(長江下流域)のちまきも、日本で食べられているちまきとそっくりです。(ちまきは中国で様々な形、中身が存在する、地域差がもろに出る指標性のある食べ物である)
シューマイもそっくり。(中国にはシューマイに羊肉を入れたり、もち米を中に入れるところもある)
八宝菜もやはり江南一帯の料理だそうです!
この地域、日本の中華料理との共通点があまりにも多すぎる・・・。
ということは、日本の中華料理は、広東系、福建系、四川系というよりも、むしろ江南一帯の中華料理の影響をもろに受けているのではないか?
そういえば、、どこで読んだのか忘れてしまいましたが、、江戸時代に長崎に駐在して日清貿易を司っていた唐通事は、方言通訳の必要性から南京人、福州人、広州人の三箇所の人間が従事していた、というのを読んだことがあります。
南京人も、福建人や広東人とともに、当時から日本と中国の間を頻繁に行き来する集団だったのでしょう。
そして日本の開国とともに神戸や横浜に形成された「中華街」。当時は「南京街」と呼ばれていたそうですね。もしかすると本当に南京人が多かったのかもしれません。
南京という大都市と、今まで散々取り上げてきた鎮江市、揚州市はそれぞれお隣さん同士の関係です。
この3つの都市がいかに近いか、を唄った宋詩すら存在します。
王安石 泊船瓜洲
京口瓜洲一水間 鐘山只隔数重山
春風又緑江南岸 明月何時照我還
(京口、瓜洲、鍾山はそれぞれ現在の鎮江、揚州、南京にあたる)
これだけ近いので、当然ながら、似通った言語や食文化を共有しています。
つまり、この妄想路線で行くと、開港当時の中華街に揚州人や鎮江人がいたとしても不思議ではないことになります。
こう考えてみると、日本の中華料理はおもに味付けの薄い広東系、江蘇系、福建系の料理の影響を受けていて、味の強い四川料理は戦後になってから料理番組などを通して普及するようになった、ということができるのではないでしょうか。
※今回の文章を書くにあたっては、しっかりとした文献にはほとんどあたっていません。
私の妄想の入り混じった完全な仮説ですので、あまり真面目に受け取る必要はないかと思います。