中国へ旅行に行って、昔ながらの古い町並みを散策してみたい!という人は多いかもしれません。
でも、現在の中国では、大きい都市へ行っても小さい都市へ行っても、どこへ行っても高層マンションがにょきにょきと林立しています。
観光地へ行けば、それなりに雰囲気を演出した古い町並みというのはあるにはあるのですが、観光地感や作り物感をぬぐい去ることはできません。
人々が昔ながらの暮らしを送っている、古い町並みってもう残されていないのでしょうか?
ご安心ください!中国にもまだまだ古い町並みはたくさん残されていますよ!ただし、もしもそういうところへ行きたいのなら、ピンポイントで探し出さなくてはいけません。
そこで今回は、中国でもまれに見る、旧市街がそのまま開発されずに残されている5つの都市をご紹介したいと思います。
1、蘇州
航空写真を見ると、お堀の形が綺麗に残されているのがわかると思います。縦横に走っている線は運河もしくは道路です。
上海から高速鉄道で30分、太湖のほとりにある、ものすごく歴史の古い都市です。紀元前6世紀に春秋戦国時代の「呉の国」の都に選ばれました。そこから2600年間もの期間、華やかな江南文化の中心都市として繁栄してきた都市です。
紀元前6世紀に蘇州を拠点にし、飛ぶ鳥を落とす勢いで繁栄した「呉の国」。杭州湾を挟んで紹興に都をおいた「越の国」とともに、数十年間にわたってドラマチックな合戦を繰り広げます。その数々のストーリーの中から生まれた「呉越同舟」「臥薪嘗胆」などの四字熟語は、日本人にとっても馴染みが深いですよね。
また、私たちは「絹織物の和服」のことを「呉服」と呼びますが、これも蘇州と関係があるそうなんです。
商業が非常に発達した蘇州では、その中でも特にシルク製品が目玉商品になっていました。昔の日本では、この蘇州産の絹織物のことを「呉服」と呼んでいたんだそうです。
歴史上の話は置いておいて、現在の話をしましょう。
現在の蘇州は経済大省で知られる江蘇省の第二の都市です。お堀と城壁でぐるっと囲まれた内側に旧市街が残されています。蜘蛛の巣のように運河が張り巡らされた江南の水郷地帯にぽつりと浮かぶ島のようです。旧市街の東側には現代的な新開発地区があります。
旧市街には、白塗りの美しい古い民家がいたるところに残されています。司馬遼太郎も蘇州を訪れたさいに、この民家を褒めちぎっています。
蘇州の美しさの第一は、民家である。…民家は、運河のふちに密集している。どの民家も、白壁に暮らしの膏(あぶら)がしみついていて、建てられて何百年も経ている家も多いだろうと思われた。古びて陋屋になりはてた家ほど美しく、その美しさは水寂びともいえるようなにおいがある。潮寂びのヴェネチアとは、そのあたりでもちがっている。『中国・江南のみち』
その他
2、揚州
揚州というと日本での知名度はイマイチかもしれません。でも、ここも蘇州と同じように、歴史上は栄えに栄まくった大都市です。そして、現在でも旧市街がゴッソリと残されているんです!
場所も同じく江蘇省です。省会都市の南京から高速鉄道で1時間。長江の北岸に位置しています。
航空写真を見てみると、手前がわに L字型に曲がった水路がありますね。これは杭州と北京間1700キロを結ぶ、あの有名な「京杭大運河」です。中国南部の大穀倉地帯で取れた農作物を、長安や北京などの都へ輸送するのに使用したあの大運河です。
揚州はまさに、中国東西水運の大動脈である長江と、南北水運の京杭大運河が交差する地点に位置しています。ここが栄えないワケがありません。
揚州の街が作られたのは今から2500年前で、やはり呉の時代です。
日本が飛鳥時代のとき、聖徳太子が派遣した遣隋使が会いに行ったことでも知られる、隋の煬帝は、この揚州が大好きでした。もう気が狂うくらいに大好きでした。当時の首都である長安を放っておいて、揚州で何年も優雅な暮らしを送っていたほどです。そして最期は揚州で暗殺され、揚州で葬られました。
続く唐の時代でも、都である長安を除くともっとも栄えていた都市が揚州だったといいます。そして近代になってからは、塩の交易で億万長者に成り上がる商人が次から次へと出現します。現在でも当時のお金持ちの大邸宅を見学することができます。
あちこちに古い民家が眠っているので、街中を適当にぶらつくだけでも相当に楽しいです。
その他
3、泉州
泉州は1週間くらい記事を書き続けられるくらいコンテンツに溢れた、とにかく、とにかくヤバい街なので、詳しくはまた別の記事にするとして、ここではごく簡単に紹介しますね。
前の2つの都市とは違い、泉州が都市として栄え始めるのは宋の時代に入ってから。つまり、現在まで1000年くらいの歴史ということになります。それだけでも十分古いですけどね。
そんな泉州ですが、実は世界史を動かすレベルの、世界的に重要な貿易都市でした。
商工業が爆発的に発展した宋の時代には、中国の外れに位置していたこの泉州こそが、当時中国最大の貿易港でした。この街から絹織物や陶磁器、お茶っ葉などが輸出され、こうして当時の鎌倉時代から室町時代にかけての日本や、アラビア帝国、東南アジア、インドをまたにかけた海上貿易の時代が始まったのです。
当時泉州から輸出された陶磁器がはるか遠くエジプトやアフリカの東海岸から出土することもあるそうです。どれほど規模の大きい貿易圏ができ上がっていたのかがわかりますね。
現在の話をしましょう。
航空写真を見てみると、赤みがかっているエリアがあります。泉州のある福建省南部は「閩南地区」と呼ばれるのですが、この赤がわらの屋根こそが閩南伝統建築の特徴なんです。蘇州や揚州に比べると少し不規則な形ですが、この赤い屋根のエリアが旧市街になります。
赤がわらといえば沖縄の伝統建築も赤がわらですよね?実は、沖縄というのは福建文化の影響をもろに受けている場所なんです。当時、琉球王国は福建省と頻繁に貿易をしていたそうなんです。
現在の話をしましょう。
現在の泉州は、衣類の生産などが全国的に有名な工業都市へと変貌しています。その他に、漁業やお茶産業なども非常に盛んです。
泉州はおとなりの厦門市から高速鉄道で40分の距離にあります。泉州にも空港がありますが、街中までのアクセスが少し悪いです。
その他
- 7世紀アラビア半島でイスラム教が成立した数十年後にはもう泉州にイスラム教が伝わってきた。
- 当時のアラビア人の子孫がまだたくさんいる。
- ゾロアスター教のお寺などもある。
- 鉄観音をはじめとするお茶の一大産地。
- 英語の「tea」は閩南語からきている。
- 台湾に住んでいる多くの人が泉州にルーツを持っている。
- なので「台湾語」と呼ばれるのは閩南語の泉州なまりに近い。
- 東南アジアの華僑も多くの人が泉州にルーツを持つ
- 大阪の泉州堺とも交易関係があったらしい
- 街中に大小無数の「廟」がある
4、潮州
日本での知名度はほぼゼロと言ってもいいのではないでしょうか。潮州です。
広東省東部の、少し内陸へ入ったところに位置しています。文化的にも言語的にも、福建南部の閩南文化圏と、広東省の広東文化圏の中間地帯に属してます(ただしどちらの人も潮州語を聞き取ることはできない)
中国の歴史上で、潮州が表舞台に出てくることはほとんどありませんでした。
それでも潮州の勢力は、水面下で確実に、全国的な影響を発信し続けています。潮州人というのは商売がとても上手な人々で、古くから潮州人の商人ギルドが知られていました。全国各地に潮州会館などが建てられています(天津ではこれが観光地になっている)
そして意外なことに、潮州は華僑のふるさととしてタイとすごく関係が深いんです。
華僑の人数がとても多いことで知られるタイですが、大部分の華僑の出身地がまさにこの潮州やおとなりの汕頭なんだそうです。タイ料理で有名な「パッタイ」などは潮州の「炒粿条」とほとんど変わりがありません。
潮州グルメは中国南部でも大々的に展開していて、香港の街中などでもよく見かけますね。唐辛子をまったく使わない「潮州牛肉火锅」や、肉汁が飛び散る濃厚な「牛肉丸」、広東式とは一味ちがった「潮州腸粉」など、全国的に有名な潮州グルメって結構たくさんあるんです。
潮州では現在、一部の城壁と、城門が残されていて、そこに囲まれた旧市街エリアが丸ごと保存されています。
観光地っ気がないので、素のままの古い町並みを楽しむことができるでしょう。
揭陽空港から潮州まで、バスでいくことができます。高速鉄道の潮汕駅まではアモイから1時間半、広州からは2時間半の距離です。
5、広州
現代の中国では、人口が1000万人を超えるメガシティ4都市を、まとめて「北上広深」と言ったりします(北京、上海、広州、深圳)。この4つの巨大都市のうち、ダントツで圧倒的に歴史が古いのがこの広州になります。
秦の始皇帝は、中国を統一した2年後に南の方へ大軍隊を派遣しました。こうして、当時は戦国時代の範囲外で異民族の支配下にあった広東地方は中国に吸収されることになります。
それ以来、広州は中国南部の政治・経済・文化の中心、そして中国最大の貿易港としての不動の地位をほしいままにしてきました。
現在でも広州の経済規模は北京、上海に次ぐ中国第3位です。「広州モーターショー」や、中国最大規模の国際展示会といわれる、年2回の「広州輸出入商品交易会」などが開催されています。
また、近年ではアフリカ各国との交易が非常に盛んなため、「小北」と呼ばれるエリアにアフリカ商人が集中していることでも知られています。ここでは地元コテコテのエチオピア料理やナイジェリア料理なんかを堪能することができます。
広東地区にはほかの地域とはどこか異質な1つの広東世界が出来上がっています。濃ゆーい、独特の広東文化が今も路地裏を満たしています。
広州の食はとてつもなく奥が深く、種類が多いです。とてもここで紹介しきれるほど生やさしいものではありません。古くから「食は広州にあり」と言われてきたくらいですから。
基本的な味付けのベースとしては、甘め・薄味・唐辛子を使わない・漢方の考え方を重視する、こういったところでしょうか。あとは食材になりそうなものはなんでも食べる、というのが有名ですよね(広州の友人は「私たちそんなに恐ろしくないよー」と否定しますが)
お茶に合わせて少しずつつまむ「点心」、身体の状態に合わせて飲み分ける漢方の「涼茶」、庶民の味「広東粥」「炒牛河」「雲呑麺」。こだわりぬいた少し高級な広東料理になると、もう知らない料理のオンパレードです。これからしっかり研究したいと思います。
早朝の朝食屋台や、飲茶(ヤムチャ)のお店から深夜の屋台まで、24時間途切れることなしに、なんらかの飲食物がいつでも広州市民に供給されているそうです。明け方近くなるまで食べ物屋さんが開いている、というのは中国北方の都市とは大きく異なるポイントです。
ちなみに広州で古い町並みが残されているのは市西部の越秀区や荔湾区といったエリアになります。広州タワーなどのある東側は、高層ビルの林立する新開発エリアとなっています。
おまけ もっと古い町並みはないの?
- その他にも古い町並みのある都市を探したい方は、中国政府が選定している「中国歴史文化名城」というリストを参考にしてみてください。現在までに135の都市が選出されています。
- 今回は中国北部の都市をまったく選びませんでした。というのも、中国北部では中国南部ほど古い町並みが残されていないからです。
- 街中で見られる古い建物は、古くて清の時代の建築で、明の時代の建築などはほとんどありません。