ある日のこと、カナダで1人の青年が中国文化に興味を持ち始めました。どうしても中国語を勉強したいと思っていたところ、ちょうどアルバイト先の書店の店主が中国系だったので、どうか中国語を教えてもらえないかとお願いしました。
「いいだろう。ただし、チャイニーズと言っても2種類あってね、君はどちらを勉強したいんだ?ひとつはお役所的な、お堅いチャイニーズで、もうひとつは庶民的な、我々が普段から話しているチャイニーズだ」
「そりゃあもちろん、みんなと交流したいから、じゃあ庶民的なほうで」
「ようし、じゃあ数字の数え方から教えるぞー。ヤッ、イー、サーム、セイ、ンー」
「………。」
以上は中国で人気のカナダ人スタンダップコメディアン、大山のネタの一部です。
これを中国でやると大爆笑が起きるのです。この青年は、世間で言ういわゆるチャイニーズが勉強できると思っていたら、なんだカナダで話しているのはみんな広東語じゃないか、というネタです。
今回はそんな広東語について、現在絶賛広東語勉強中のわたくしがあれこれとご紹介していきたいと思います。
驚異の話者人口
みなさんは「広東語」って聞いてどんなイメージが浮かびますか?
香港映画の中で耳にしたことがある人が多いかと思います。中川家がよくものまねしている、あれです。
男性がしゃべっている広東語を聞くと、どこか東南アジアを思わせるような、鼻声の多いイメージで、語尾をビヨーンと伸ばす特徴的な喋り方が耳につきます。
しかし女性が話しているのを聞くと、同じ広東語なのにびっくりするほど耳に優しい。
それもそのはず、どこかで見た「世界3大美しい言語」の中には、フランス語とともに広東語が入っているのです。(信ぴょう性もあまりないが、発音は確かに美しい)
広東語は美しいだけではなく、実はその話者人口の多さでも圧倒的な勢力を誇っています。いろいろな数字がありますが、広東語の話者人口はおよそ1.2億人とも言われています。つまりは、日本語にも匹敵する話者人口を持っているということになります。
広東語が話されている地域
1.2億人もの話者がいる広東語ですが、いったいどこで話されているのでしょうか。
地図を開いてみると、中国大陸の南部に広東省という地域があります。そして広東省の人口を見てみると、ちょうど1億人弱あることがわかります。
じゃあ広東省で話されている言葉が広東語なんでしょうというと、そうも単純ではないのが現状です。
じつは広東語を話しているのは広東省のおおよそ西半分だけであり、省の東半分では客家語や潮州語が話される地域となっているのです。ですので、広東省の東半分では広東語が通じない、という少し不思議なことになっています。
さて、半分の広東省だけでは1億人に満たないので、ここで香港を追加します。香港ももちろん広東語地域です。
さらにお隣、広西省の東側の大部分の地域も追加しましょう。広西省の大部分も古くから広東文化圏なんですね。
これでもまだまだ1億人には達しません。でも中国国内の広東語地域はもうこれだけ。
ここで海外に目を向けます。世界各地に古くから居住している華僑ですが、広東人は福建省南部の閩南人勢力と華僑の2大巨頭を形成しています。タイ、マレーシア、シンガポール、アメリカ、カナダ、オーストラリアなど、それぞれの国に数百万人の広東華僑が暮らしていると言われています。
そんなこんなで、全部合わせると1.2億人いるよ、ということらしいです。
広東語の呼び方
日本語では「広東語」と呼びますが、広東省の人が全員広東語を話しているわけではないため、実はこれはあまり正確な呼び方ではありません。
しかしながら、英語で広東語を「Cantonese」ということからもわかる通り、外国ではこの言い方が広く浸透しているようです。
中国の標準語である普通話でも「广东话」と呼ぶことがありますが、広東の古名を使った「粤语」という言い方のほうが多用されます。
地元では「粤语」という言い方とともに、「白话」や「广州话」という呼び方も使われています。広州が歴史的に広東文化の中心地であったことが伝わってきます。
また、香港の一部の学者の間では「香港話」という呼び方で大陸の広東語と香港の広東語を区別する人もいます。
何だかいろいろな呼び方が乱立していますね。
広東語は中国語なのか
では広東語って中国語とどういった関係にあるんでしょうか?
結論からいえば、現時点では広東語は漢語(いわゆる中国語)の一方言でしかなく、独立した言語ではありません。
「現時点では」と言ったのは、この先広東語がひとつの言語としてみなされる可能性があるからです。
なぜなら、現在中国で標準語とされている「普通話」と「広東語」の違いがあまりにも大きいからです。
(「普通話」は日本では誤って「北京語」などと呼ばれている。普通話は確かに北京の発音を元にして作られた標準語ではあるが、北京語は北京語で一方言として別に存在する。東京の標準語が江戸言葉とは異なるのと同じ原理。)
1、普通話と広東語を比較すると、まずは発音が大きく異なります。
広東語を全く勉強したことがない中国人が広東語を聞いてもほぼ聞き取れません。
どちらも同じように、漢字を一文字一文字、一音節ずつ発音していくのですが、広東語には普通話と全く異なる発音が大量に存在しています。
そして全体的にみると、広東語の読み方は実は普通話よりも、むしろ日本語の音読みに近いのです。
これは広東語と日本語の音読みがどちらも中国の古い発音を残していることに起因しています。
2、発音が違えば、語彙も違います。
広東語では「若い」ことを「後生」と言ったり、「冰箱」のことを「雪柜」と呼んだり、普通話にはない独特の語彙がたくさんあります。
また、普通話では「吃」というところを広東語では「食」と言ったり、普通話で「喝」というところを広東語では「飲」と言ったりするなど、語彙の面でも一部日本語に近いところがあります。普通話の「今天」も広東語では「今日」と言います。
3、語彙が違えば文法すら違う
普通話と広東語では、一部文法構造が異なります。
「ご飯食べましたか?」を表す
「你吃饭了吗?」 が、広東語では
「你食咗饭未啊?」(「你吃了饭没」)と、順序が異なります。
他には「先に食べて」という時なども、普通話の「你先吃吧」が広東語では「你食先啦」に変わります。
以上、発音、語彙、文法からその違いを見ると、普通話と広東語がどれだけ異なる言語であるかがわかると思います。
言語同士の単純比較というのは難しいのですが、普通話と広東語の違いは、イタリア語とスペイン語など、ヨーロッパの諸言語同士の違いよりもずっと大きいと言われています。
ここまで違うのに、どうして独立した言語ではなく、中国の一方言でしかないのかというと、「同じ漢字を共有している」ということと、「同じ国家に属している」という理由が挙げられます。
(ちなみに中国には普通話からかけ離れた方言がまだまだ山ほど存在している。広東語はまだ普通話に近い方である)
広東語マニアたち
さて、話者数も多く、独特の特徴を持つ広東語ですが、これだけでは最強の方言の地位を築くことはできません。
文化のパワーです。
70年代の中国大陸では、文化大革命が終わると同時に、改革開放時代が始まり、それまで閉じられていた国が一気に門戸を開き、外界の文化を受け入れるようになりました。
当時の中国に対して、もっとも影響力が大きかったのが香港の存在です。
大量のマネーと同時に、黄金時代を迎えていた香港大衆文化が中国大陸になだれ込みました。
具体的に言うと映画や大衆音楽、ファッションなどです。
毛沢東時代に大衆文化が凍結していた大陸の中国人にとって、広東語に乗ってやってくる香港のファッショナブルな文化はよほど魅力的だったことでしょう。
21世紀の現在でも街中で広東語の歌が聞こえてきたり、香港の映画やドラマを見て育つ若者がいます。その影響は今でも続いていると言っていいでしょう。
そんな中で、香港文化に見せられた人々の中に、広東語を学ぶ人が現れます。言語を学ぶ人が現れれば、教科書や語学学校が充実します。
さらに香港や広州に移住してくる人や出稼ぎでやってくる人々も、郷に従えと、できるだけ早く広東語を身につけようとします。これは中国の他の都市ではあまり見られない現象でしょう。
こうして、普通話教育を全面的に推し進めていく世にあって、広東語は北京の中央勢力にも打ち負かされない、確固たる足場を固めていったのです。
文化が魅力的であることがその言語をも魅力的にするのです。